バウハウスとは20世紀初頭、ワイマール、デッサウ、ベルリンへとその地を移した学校の名前です。建築を全ての芸術の目標と捉えその教育課程を作り上げましたが、二つの大戦間という時代ゆえ、実際に建築クラスをはじめから持つことができなかったという矛盾をはらんでいます。ファインアートの芸術家だけでなく工芸や職人に光を当てたという点では前世紀末イギリスでウィリアム・モリスが率いたアーツ・アンド・クラフツ運動を発端としていますが、機械化、大量生産という技術的革新の波に乗って方針を変え、それが今ではむしろ「バウハウス」的イメージの中核をなしています。
                 
 バウハウスという名前は1919年、建築家ヴァルター・グロピウスがヴァン・デ・ヴェルデの勧めにより「美術アカデミー」と「美術工芸学校」を統合し、「ワイマール国立バウハウス」を開くことによりはじまりました。そこには製本工房、織物工房、金属工房などとならんで、石彫、絵画、印刷のクラスも開かれますが、それぞれの工房に入る前、色彩構成などの基礎課程をうけるという点が現在の美術教育に受け継がれている点でしょう。それぞれの工房を「形態のマイスター(親方)」や「工芸のマイスター」が担当し、新たに著名な芸術家を招聘するにつれて工房も増えていきました。木彫、壁画、ステンドグラス、そして演劇のクラスまでもが開かれ、オスカー・シュレンマーもマイスターの一人として途中から参加したひとりです。個人の画家としてクレー、カンディンスキーの名は有名ですが、彼らもバウハウスのマイスターであったことは意外に知られていないのかも知れません。ワイマールでの写真で紹介した「アム・ホルン」は、1923年のバウハウス週間という初めての大規模な展覧会に際して建てられたモデルハウスです。
                           
 しかし、ワイマールでの風潮が次第に右傾化していく中、1925年ついにその地を追われることとなりました。そんな時、バウハウスで町づくりをしようとバウハウスを招き入れたのがデッサウです。グロピウスが持つ個人の設計事務所と併せて、デッサウ市内には彼らによる多くの建築が建てられ、その内のいくつかが今も残されているか修復されて保存されているか、また今も実際に使われているかしています。また他の工房もバウハウスデザインとして多くの収入を得ることが出来、途中で校長の交替もありましたが、財政的に最も安定していた時期でもありました。ただしそれも長くは続きませんが
 1920年代後半から、ドイツ国内の情勢はますます悪化していきます。ドイツマルクの急落、経済成長は1913年の状態にまで逆戻りし、失業者の数も増え続けました。それにつれてバウハウスも資金調達が困難になり、1932年、デッサウでも閉鎖を促されます。当時の学長であったミース・ファン・デル・ローエの働きでバウハウスという名前だけは残し、ベルリンでわずかな人数ですが私立学校として継続することになりましたが、一年と経たない内にそれも幕を下ろします。1944年7月のことです。それはちょうどゲシュタポが作られた年でもありました。